ヤフー株式会社は、2023年10月1日にLINEヤフー株式会社になりました。LINEヤフー株式会社のコーポレートサイトはこちらです。
当ページに記載されている情報は、2023年9月30日時点の情報です。

2017.02.21

ユーザーをつかむためには、技術的な正しさだけでは不十分だ──ヤフーCMO・村上臣の学生ベンチャー時代

弱冠36歳で、ヤフーの役員に就任し、チーフモバイルオフィサー(CMO)という独特な役職名で、ヤフーのモバイルインターネット事業をリードする村上臣。
学生時代からモバイル時代の申し子のようなキャリアを歩んできた。まずはヤフー入社以前の話。高校生時代から彼は変わっていたようだ。

高校時代は秋葉原でパソコンを組み立てていた

「TWO TOP」は、秋葉原を中心に全国に店舗展開するパソコンショップ。パソコン本体やパーツがそろい、今でもBTO(Build to Order)や自作パソコン派にとっては欠かせない拠点になっている。

今から20年以上前、秋葉原本店のバックヤードでDOS/Vパソコンを組み立てる1人の少年がいた。高校3年生の村上臣だ。

「NECのPC-98の時代が終わり、安価で拡張性の高いDOS/V機が全盛の時代。TWO TOPもショップブランドでパソコンを販売していました。最初は僕も店の客の1人だったんですが、そのうち店を手伝うようになって、気づいたら、企業や大学研究室向けに見積書を書いたり、時には同業者を回って在庫をかき集めたりする仕入れも担当していました」

もし大学に進学しなかったら、そのままアキバ商人として成功していたかもしれない。

大学は青山学院大理工学部物理学科。大学での居場所は、計算機センターか学食のどちらかと決まっていた。とにかくインターネットが面白くて、無料で接続できる計算機センターに入りびたっていたのだ。

当時はインターネットといえばUNIXワークステーションからつなぐのが普通だった。OSはほかにもいくつかあったが、彼はちょっと違っていた。

「FreeBSDはなんかエスタブリッシュな感じが嫌で、僕はもっぱらLinuxの設計思想に入れ込んでいました。ソースをビルドし、自宅サーバーを立てたり、もう一つの趣味のDTM(Desktop Music)のためのMIDIファイルをやりとりしたり、もうとにかく個人が自由に世界に情報を発信できるっていうんで、ワクワクしていましたね。
秋葉原時代のコネクションで中小企業のITサポートを請け負ったりもしていましたから、学生としては破格のバイト料を稼いでいましたよ」

村上の写真

学生サークル「電脳隊」を設立。ラーメン屋で夢を語る

大学の学園祭でパレードをする「青学サンバ隊」を母体にした、「電脳隊」というグループ(後に法人化)が生まれたのは、村上が大学1年の終わりの時だ。前年にWindows 95が登場して、世の中は未曽有のパソコン・インターネットブームにわき立っていた。

「ホームページを立ち上げて企業を宣伝したい」──そんな中小企業のニーズを学生ビジネスにできないか。プロデューサーの川邊健太郎(青山学院大、電脳隊第2代社長、現・ヤフーCOO)が、Webサイトを構築できる男としてスカウトしたのが村上だった。

そこには田中祐介(慶應大、電脳隊初代社長、現・ヤフー パーソナルサービスカンパニー カンパニー長)もいた。当時はホームページ作成が1ページ単価数十万円という高単価で稼げる時代だった。

「でも、結局のところは受託開発。それに少し飽きていました。深夜の行きつけのラーメン屋で仲間と『チャーシューの香りとかをネットで伝えることができたら、すごくない? こういうの、いつか自社サービスとしてやりたいよな』といった話をしていたら、隣のアメリカ人が『だったら、やっぱりシリコンバレーを一度見ておくべきだ』と近寄ってくるんです」

村上の写真

話を聞くと、そのアメリカ人は電脳隊メンバーの東大生とたまたま同じ研究室。そのツテで1998年、メンバーはシリコンバレー視察ツアーを企画することになる。

当時の写真を見ると、AppleやNetscape Communicationsの本社前での記念撮影がある。Netscapeは会社としてはもはや存在しない。Googleはその年にひっそりと設立されていたが、まだ誰もその存在を知らなかった頃だ。

シリコンバレーで見た夢。モバイルインターネットが始まる

「シリコンバレーで、Unwired Planet(さまざまなM&Aの末、現在はMyriad Group傘下)というスタートアップを知りました。携帯電話でインターネット閲覧ができるようにするプロトコルWAP(Wireless Application Protocol)を開発し、その後、NokiaやMotorolaなどと一緒にWAPフォーラムを推進する会社です。

で、その社長が『アメリカではAT&TがWAPでコンテンツサービスを始める。日本でも複数の携帯電話のキャリアと交渉中だ。君たち、日本で展開するときは一緒にやらないか』と言うんです」

まさにモバイルインターネットが立ち上ろうと湯気を立てている瞬間に、電脳隊のメンバーは立ち会ったわけだ。

PCから携帯へ、時代が変わる。その波に乗らない手はない。

村上は帰国すると、早速、WAPエバンジェリストとしての活動を始めた。WAPは日本ではIDO/DDIセルラーフォングループが採用し、後のauが「EZWeb」としてサービス展開することになる。

一方、NTTドコモはWAPに対抗して、Compact HTMLを元にした独自規格で「iモード」を準備していた。サービス開始はほぼ同時期だったが、数年後にはEZWebはiモードに大きく水を空けられてしまう。

「WAP(記述言語としてはWML/HDML)はCompact HTMLに比べるとかなり複雑で、訓練を積んだプログラマーでないと書けないものでした。当時はエンジニアリングが正しければ、すべて正しいと僕は思い込んでいましたが、iモードサイトはエンジニアでなくても比較的簡単に作れるから、勝手サイトがどんどん生まれて、ユーザーの人気を獲得していった。
ユーザーの心をつかむには、技術的な正しさだけでは不十分、ということを身をもって痛感したのはこの時でした」

村上の写真

技術ありきだけではサービスは進化しない。百万遍の能書きよりも、一つの動くプロトタイプのほうが勝ちだ──それは後の村上が技術戦略を立てる上での貴重な教訓になっている。

システムコンサルタントで発揮したプロトタイプ至上主義

1999年から2000年にかけて、時代はITバブル真っ盛り。渋谷ではインターネット関連のベンチャー企業による「ビットバレー」ブームが起きていた。

「ただ、電脳隊は恵比寿にオフィスがあったので、ちょっと冷静でした。そのうち大学卒業が迫ってきて、僕は電脳隊に残るか、どこかの企業に就職するかを決めなくちゃいけなくなった。

今後IT業界で仕事をする上でも、大企業のやり方──例えば意志決定の仕組みなどを、知っておく必要があるなと思っていました。そのためには広く業界を見渡せるポジションがいいと、システムコンサルティングの会社をいくつか受けることにしました。全部落ちたら電脳隊に戻ればいいやと」

4社受けたうち、内定をもらった2社のうち一つが、野村総合研究所(NRI)。配属は、自社パッケージソフトを販売するソリューション部隊。新卒社員を初めて迎え入れる部署だった。

「メインフレームなんてそれまで見たこともなかったけれど、そこで動く電子帳票システムを企業に売るわけです。帳票というのは業界・企業ごとにさまざまな独自仕様があって、マスの中に印字する文字が1ミリでもずれてちゃいけない。

電子帳票もそれを正確に再現できないといけないんです。そこで僕がやったことは、顧客のシステムに合わせた電子帳票をVisual Basicで作って、動くプロトタイプでプレゼンすることでした。何ページもの提案書を書くよりはるかにわかりやすい」

村上の写真

以前、電脳隊で学んだ、プロトタイピング至上主義を発揮し、フィールド・エンジニアとして村上は一目置かれるようになる。しかし、NRI在籍はわずか10カ月にすぎなかった。

「おこがましい言い方で、今思えば若気の至りだけれど、企業のITシステムのことがざっくりわかってしまった気がした。とてつもなく大変で複雑なシステムを作っているのは感心したけれど、やっぱり時代の流れはメインフレームではなくオープン化。その流れに早く乗りたいと思ったんです」

そして、村上は再び学生時代の仲間の元に戻ることになる。

電脳隊はその頃四つのベンチャーが集まって作ったJV(ジョイントベンチャー)である「PIM」という会社に軸足を移しており、自社開発のPC版グループウェアは数万人のユーザーを獲得していた。

そのモバイル版開発が村上の新たな使命になった。

「ただ、2000年に入るとインターネットバブルの崩壊は目に見えていました。それでもPIMに残ったのは、インターネットビジネスの始まりも体験したのだから、それが散っていくのだとしたら、ちゃんとその中にいて見届けよう──そんな思いからでした」

シリコンバレーでもビットバレーでも、あっけなくインターネットバブルが散りゆくなか、PIMの事業や技術に関心をもち、まるごと買収しようという企業が複数現れた。その中の一つがヤフーだった。2000年8月、PIMのメンバーごとヤフーへ移籍することになった。
「大きな会社なら、もっといろんなことができる。ヤフーはモバイルでは出遅れているみたいだ。それをテコ入れすることが自分ならできるはずだ」

──日本の携帯インターネットの先鞭を開いたのは自分たちだ。村上にはそんな自負があったのだ。 (第2回に続く)

関連記事

このページの先頭へ