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2016.09.28

VisualC++でガリガリ書いていた高専時代に学んだこと ──ヤフー初代黒帯エンジニア、CTO藤門千明の学生時代とは

専門性に優れたエキスパート人材を任命するヤフーの「黒帯制度」。その初代黒帯の一人として、また最高技術責任者兼執行役員として、ヤフーの技術経営を牽引する藤門千明。学生時代は何を考えていたのか──沼津高専から筑波大学に進学し、ヤフーに就職した頃を振り返ってもらった。

最初のプログラミング環境はVisualC++

ヤフーには、エンジニアやデザイナーなどのクリエイター職種において、専門性に優れたエキスパートを任命する「黒帯」と呼ばれる制度がある。
文字通り、武道における有段者を示す黒帯から由来しており、ヤフーでは1年間の任期制で、次年度以降も成果を挙げ続ければ黒帯は更新されるが、人によってはそれを失う場合もある。任命するほうもされるほうも、成果重視の緊張感のある制度といえる。
2012年に初代の黒帯に任命された一人に、藤門千明がいる。2005年の新卒入社。ヤフーの生え抜き社員で最高技術責任者(CTO)になったのは彼が初めて。かつ執行役員とCTOを兼ねるのも、ヤフーでは初めての人事だ。

藤門はいかにして、技術と経営の両方にかかわるエキスパート人材になり得たのか。それを知るために、静岡県沼津市の工業高等専門学校時代から振り返ってもらった。

「焼きそばで有名な富士宮市の生まれです。沼津高専を進学先に選んだのは、全寮制だったから。田舎育ちで、どこの高校に行くのも時間がかかる。通学に何時間をかけるよりも、寮に入ったほうが勉強する時間を確保できると思ったんです。96年の入学ですから、インターネットはまだ黎明期。私は制御情報工学科出身ですが、はじめは機械工学がメインのカリキュラムでした。」

最初のコンピュータプログラミング環境は、アカデミックラインセンスで購入したVisualC++。当時のWindowsの標準開発環境だ。

「高専のUNIXワークステーションでC言語を学びましたが、UNIX-Cは色気がない。Windowsの発売によってグラフィカルなフリーソフトが流行っていたし、VisualC++で作っていますというと、なんかカッコイイ気がしました。最近のエンジニアがスマートフォンアプリを作る方がカッコイイし成長できると考えるのと、動機はあまり変わらないですね(笑)」

しかし、その時代の新しい言語を学ぶことにはリスクもあった。

「ドキュメントも書籍もほとんどない。あったとしても全部英語。しかも高価なので学生の自費では何冊も買えないから大きな図書館に行って探すしかない。ただ、手探りでモノを作っていくことを、この時期一番学べました。アクティブに行動しないと、何も学べないというのはこの時期得た最大の教訓です。」

藤門は自分で言語を学ぶだけでなく、情報を共有するためのウェブサイトも開設した。彼が公開したVisualC++のライブラリに注目し、ライセンスを希望する企業もあったという。

専門分野以外の学問が、対人コミュニケーションに役立った

こうしてコンピュータ専門家の道を歩み出した藤門だが、高専を卒業すると就職は選ばず、筑波大学工学システム学類に編入学する。

「コンピュータは自分の専門ですが、もっと人間の幅を広げるためには総合大学に進むのがいいだろうと思いました。私も筑波では哲学や物理学など一般教養の授業も取りました。技術職として仕事をしていく上でも、人とのコミュニケーションは欠かせない。技術を理解できない人にも丁寧に説明できないといけない。今から思えば、大学で専門分野以外の学問に触れたことが、組織の中でコミュニケーションを深め、リーダーシップを発揮する上で大いに役立っています。」

学部を卒業すると大学院へ進学。システム情報工学研究科知能機能システム専攻の研究室に身を置いた。

「昼夜問わず、誰かしらいつも泊まり込んでいるような研究室。起きたとたんに、一言も発さず、コードの続きを書き始める、ベンチャー企業の開発室のような雰囲気でした。一生懸命モノづくりをする人たちの情熱みたいなものを感じましたね。」

そこでの藤門の研究「タンジブルアバタを利用したVR空間ナビゲーションインタフェースの評価」は、2005年度の日本バーチャルリアリティ学会論文賞を受賞している。

「仮想空間の中を移動するとき、コントローラーを操作したり、ヘッドマウントディスプレイをつけるのが一般的ですが、手に取れるオブジェを自分の分身(アバター)としてディスプレイに映し出し、それを動かすほうがより実感的。特に子どもの教育分野では有用ではないかと思って研究していました。」

藤門らが開発したナビゲーションシステムは実際、国立科学博物館で開催されたマヤ文明展でもデモンストレーションされた。修士論文を発展させた「タンジブル地球儀インタフェース」は、子どものための天文学教育にも活かされているという。

第一志望ではなかったヤフー。誤解が解けたのは入社後

バーチャル・リアリティ(VR)のシステムを研究する過程で、C、C++、Javaなどのコンピュータ言語を習得していった。ネットワークを介して、人とコンピュータがつながる世界に新しい可能性を感じるようになった。博士課程に進学するよりも、それらの知識を企業の現場で試してみたくなり、就職活動を開始した。

「コミュニケーションやネットワークに興味があったので、就活の最初の頃は通信キャリアがメインターゲットでした。何社か落ちたあとに、ふと、コンピュータとネットワークを介して人と人とをつなぐ仕事はヤフーでもできるんじゃないかと気づいたんです。ヤフーは私たちの世代にとっては、日本語でアクセスできる初の本格的なポータルサイトとして記憶されています。就職活動で使ったのもYahoo!リクナビ(現在はサービスクローズ)。私たちの世代にはなじみの深い会社でした。」

ヤフーが第一志望ではなかったという藤門。あまりにも身近すぎて、そこで自分をどう活かせるか、最初は見当がつかなかったのだろう。コンピュータ・サイエンスを専攻した学生の目からは、少々もの足りなさを感じたのかもしれない。

「Yahoo! Inc.のサービスをローカライズしているだけで、日本では開発していないんじゃないかとか、ましてやオープンソースなどは使ってないんだろうというような“誤解”が私にもありました。しかし、そんなことはなかった。貪欲なまでにテクノロジーを追い求める企業であることは、入社して初めてわかったことでした。」

2005年以降の藤門のヤフーでのキャリア、それを通して培った彼なりの技術戦略については、また詳しく記したい。

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