「万が一に備えてほしい」
「語り部」が伝えたい思い

サン・ファン館で語り部を務めた齋藤敏子さんたちの写真

サン・ファン館で語り部を務めた齋藤敏子さん(左)ら

「災害伝承」で1000年後の命守る

「熊本地震の被害をニュースで見て、胸が苦しかった。私たちと同じような思いをする人がいなくなってほしい。地震だけでなく、自然災害はいつ、どこで起きるのか分からない。ツール・ド・東北が、万が一のことを考えるきっかけになれば」

こう話すのは、サン・ファン館(石巻市渡波)で語り部を務めた石巻観光ボランティア協会会長の齋藤敏子さんだ。齋藤さんは2011年8月から、震災の学びを伝えようと、当時の石巻や被災地の様子について案内を続けている。これまで10万人以上に案内した。

齋藤さんは3月11日の地震発生後、車で高台に避難し、2日間を過ごした。「携帯電話もつながらず、家族と連絡が取れないことが一番不安だった。避難所といっても、名ばかりで何もなく、どうしたら良いか分からず、みんなパニック状態だった」と振り返る。

鮎川浜の斎藤富嗣さんは当時、最盛期を迎えていたワカメ漁に出ていた。5mの船で、第一波、30mにも達するような第二波の津波を乗り越えたという。「海の上で24時間耐えた。恐怖と寂しさでいっぱいだった。町が壊れていく、そのギシギシという音。真っ黒な海の底、生臭いにおい、この世のものとは思えず、今でも忘れられない」。

当時、船上で津波を経験したという語り部の斎藤富嗣さんの写真

当時、船上で津波を経験したという語り部の斎藤富嗣さん

語り部たちに共通するのは、「同じ気持ちを味わってほしくない」という思いだ。同時に「災害伝承」の重要性も感じる。

石巻観光協会の土屋光良さんは震災当時、金華山の売店で働いていた。津波の引き波で金華山と半島の間の海底が出現するのを目の当たりにしたという。土屋さんは子どものころから、祖母に津波の恐ろしさや、地震の後は海に降りてはいけないと聞かされてきた。

石巻市役所荻浜支所長の木村眞二さんは、当時、支所の隣にあった公民館に避難してきた保育所園児らの対応に奔走した。6mの津波が来るという情報が入り、そのままでは公民館が飲み込まれてしまう。そこで支所に避難させ、雪が降るなか、園児を背負い、2階から屋上へと上がった。そこからさらに、引き波の時間を利用して、がれきをよけ、逃げ道をつくり、園児や高齢者を高台に避難させた。「津波は第一波より第二波が大きい。とにかく、高い所に避難するという、チリ津波の教訓があった。家が流されていく様子、クラクションの音は今でも焼き付いている」と言う。

それぞれがつらい経験をした。それでも、齋藤敏子さんは「震災から5年半、一番変わったのは子どもたち。たくさん我慢して、つらい経験を乗り越えて、本当にたくましく成長した。東松島の高校生たちは『語り部』となって、1000年後の命を守るために震災の教訓を伝えようと必死に活動している」。表情には、悲しみと希望が入り混じる。

山と海が美しいコースを駆け抜けるライダーの写真

山と海が美しいコースを駆け抜けるライダー

「頑張っている姿を見に来て」

「こんなに人が来てくれるなんて本当にうれしい」。18日の雄勝エイドステーションで、ボランティアとしてホタテ焼きを提供していた女性が話す。雄勝地区は家屋のほとんどが全壊し、高台移転が進み、更地が広がっている。「民泊の受け入れがきっかけで、手伝うようになった。普段は歩いている人さえ見なくなってしまったこの通りを、何千人ものライダーが走っていくのに、わくわくしている」。

今年のツール・ド・東北は2日間、雨が続いた。それでも、沿道に立つ人々は、手を振り、ライダーに声援を送る。

津波で流されてしまった家が建っていた場所で、太鼓をたたいて応援する母子。もとは雄勝に住み、亡くなった父のお墓参りとツール・ド・東北がたまたま重なって応援していた家族。スタート地点の近所に住み、毎年楽しみに見に来ているという女性――。沿道に立つ理由や抱える思いはさまざまだ。

「頑張っているよ、とみんなに伝えたい。石巻の豊富な食とおもてなしの心を味わってみてほしい。特に冬は、カキやホタテ、アナゴ、ワカメが美味しいし、旅館や民宿もある。またぜひ遊びに来てほしい」。斎藤富嗣さんは力を込める。

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